【対談企画】進化教育学は学習に何をもたらすのかvol.2理想的な授業デザイン、そして評価の意義

2020年5月8日

進化教育学の観点から教育の役割を議論した前回から引き続き、話はより具体的な方法論、成績評価、未来の教育に展開していく。

 

まだ読んでない方はこっちから↓

勉強に目標はいらない

エイジ:

いかに認知的負荷を軽くして教えていくかが、授業の成功を左右する鍵になるという話はご理解して頂けたかと。

で、ここからはもう少し具体的な方法論を探っていきたいと思います。

認知負荷理論の実践例として、「ゴールを設定させない」というものがあります。授業でいうところの「めあて」がこれに当たりますね。

学習段階では、明確な目標は認知的負荷を軽くしてくれないんですよ(知識を長期記憶にするのを助けない)。

 

ねこみん:

なんとなく感じてはいましたが、やっぱりそうなんですね(笑)

 

エイジ:

算数だと、「3×4を解いてみましょう」と指示するよりも、「3×○。○の中にいろんな数字を入れて沢山解いてみましょう」の方が長期的にみて、かけ算の知識や応用性が身につくんですよ。

認知的負荷を軽くするには長期記憶の量を増やすのが最善策で、そうなると経験を積ませるしかないんです。

学習段階では、明確な目標を立てて最短ルートを進むよりも、変数を変えてとにかく問題を解いたり、活動させて記憶量を増やすのが望ましい。これを、“ゴール・フリー効果”と言います(1)。

 

ねこみん:

いやぁ、そういうのが実際にあるんですね。すごい、我が意を得たりって感じです(笑)

塾には授業マニュアルというのがありまして。それには、「授業の目的をハッキリさせよう」と書いてあるんですよ。

授業経験が無い講師だと、これを額面通り受け取ってしまい、それこそ「めあて」を最初に書き出したりしちゃうんですね。私が講師を指導する際は「それ、意味ないからやめなさい」って言っちゃいます。

 

そもそも、めあてってこれから学習する事ですよね。これから学ぶ生徒に示したところで伝わるはずありませんし、そんなの書く時間があれば具体的な話か、算数なら数字を動かして、対象ととにかくぶつかる経験を積ませた方が学習効果は高いだろうと。

これは実感としてありましたが、理論としてちゃんとあるんですね。いやぁ、勉強になりました(笑)

 

エイジ:

私はよく、Twitterで「遊びこそ最大の学びである」とツイートしていましてね。

 

遊びの最大の特徴は目標がない事で、遊びの目的は遊ぶ事なんです。

幼少期の大半は遊びに時間を費やして学んでいますから、進化上、自然かつ有効な学習方法として遊びが採用されてきたのだろうと。

効果的な理由はいくつかありますが、変化が多いところが魅力的ですね。目標設定とはいわばスポットライトのようなもので、それに寄与しない情報を捨てさせる働きがあります。

目標がないと、あらゆる要素や変化を吸収して、決して教えられない適応性が身につくんです。

 

ねこみんさんの授業のように、数値を動かして様々な計算パターンを経験すると、長期記憶の量が増え、どんな問題がきても大丈夫な状態になります。

勉強してないのにテストの点数が取れる子がいる理由の一つです。

日本人は自由記述問題が苦手だと揶揄されたりしますが、これは狭い目標の中で限定された学習をしてきたからなんですね。

目標設定は、学習者側も教える側も陥りがちな落とし穴です。

 

ねこみん:

いやぁ、わかります。仕事の情報収集は別ですけど、我々が本を読むときに目標なんか設定して読みませんからね。

 

エイジ:

よく、新しい分野を勉強する時には入門書を3〜5冊読みましょう、なんてアドバイスがありますよね。

情報の偏りをなくす為だと言いますが、認知負荷理論からすれば、様々な説明パターンに触れる事で応用性の高い基礎知識が身につくという利点が見出せます。

 

ねこみん:

まさしく、私もそれを狙って読書してます。

 

エイジ:

先行研究の一部を紹介すると、①ゴールを設定させないグループ②ゴールを設定させたグループを比べると、①の方が回答の正確さで、5倍ほど上回ります(2)。

なので私、学校教育から「めあて」という概念を無くしたいですもん(笑)

書くにしても、明確なゴールではなく挑戦回数や時間にするとか。

 

ねこみん:

僕もそう思います。結局、めあてを書くのはポーズ(授業をしていますアピール)ですからね(笑)

 

エイジ:

前々から意味ないと考えていて、まぁ、端っこに書いてあるだけですし、あっても害はないだろうと思っていたんですよ。

そんな中、進化教育学を深く勉強していくうちに「あれ、デメリットでしかないぞ…?」と思うようになって(笑)

無くしたいんですけど、書かないと怒られるケースもあるんですよね。

 

ねこみん:

頭の固い人は指摘してくるでしょうね。私はシカトし続けてきましたが(笑)

教育実践家の中でも、昔から「めあてはいらない」と言う人は何人かいましたよね。向山洋一先生もおっしゃっています。

 

エイジ:

一度、エビデンスを詰め込んだ記事を書いてみようかな(笑)

 

ねこみん:

全力で拡散します(笑)

 

理想的な授業デザイン〜探究と例示の狭間で〜

 

エイジ:

もう一つお話したい事があって、教える側が生徒に例を示す時ってありますよね。数学なら解法のプロセスを黒板に書き出したり。

あれも認知的負荷を取り除く有効な手法です。

 

ただ、中には構成主義の立場を取る教育者もいます。要は、「学習者に知識を見つけさせよう」ってやつですね。ブルーナーの発見学習(3)の派生で、構成主義や探究学習と名を変えて度々登場します。

彼らの主張の根幹は、「教えられて得た知識よりも、自ら発見した知識の方が良質である」というものですが、実はそうでもなかったりするんですよ。

 

ねこみん:

そうなんですか?

 

エイジ:

はい。知識を発見させた子と最初から教えた子を比べても知識の質は変わりませんでしたし、唯一の違いは発見学習の方が時間がかかっていた、という点でした(4)。

指数関数的に増える知識を身につけさせなければならない学校教育ではコストでしかない。

 

ねこみん:

一度、探究学習を取り入れている方の授業を見学させてもらった事があって。

「探究そのものをしているというより、過去の探究の道筋を辿っている」というのが、率直な見立てでした。

もちろん、所々踊り場(意見を引き出して議論させる時間)はありましたけど、基本的なプロセスは教師の計画内でしたね。子ども達は学びに熱中している様子が伺えて、あれはあれでとても優れた実践例の1つだと思いましたけれども。

 

科学史を見ていても、限られた時間内で探究するとなると、ああいった形に落ち着くのだと思います。

 

エイジ:

発見させるまでもない知識をわざわざ見つけさせようとしている気がします。

 

ねこみん:

あぁ、それすごくわかります(笑)

実験器具の使い方を考えさせる授業を見かけた事があるんですけど、もう、何をやっているんだ、と…。

 

エイジ:

何度も言いますが、教科教育(学習)は二次的能力の学習ですし、成功の鍵は認知的負荷を減らす事です。

なのに、学習の本質から逸れたところに思考力、認知的リソースを割くのは得策とは言えません。なんなら、序盤で躓いてしまう可能性だってある。

基礎知識はさっさと教えてしまった方がいい。

 

ねこみん

基礎知識を教えた上で、発見の活動を設けるのがいいんでしょうね。

 

エイジ:

これまでの話をまとめつつ、理想的な授業デザインを考えるなら、

 

①新しい単元なら既にある知識(Ex:日常生活とか)、前回の続きなら復習から入る。

 

②繋がりを感じさせつつ、この時間で必ず学んでほしい基礎知識を教える(例示)。

 

③ある程度理解できたら、変数を変えて練習させる(変化をつけて応用性を高める)。

 

④応用性が身についた(長期記憶化)したら、ランダム性を設けてアウトプットに変化をつけさせる(議論や発言、探究)。

 

⑤最後に、基礎知識かつ多種多様なパターンを再インプット(ノートにまとめたり)

 

こんな感じになりますかね。もちろん、児童生徒に合わせて柔軟な対応は求められますが、これが認知負荷理論を応用しつつ、今の学校教育内で実現可能なやり方なのではないでしょうか。

 

ねこみん:

現状の最適解はこれかもしれませんね。

すごい、でちゃった(笑)概ねこの方向になるかと。

 

エイジ:

(笑)

そうなると、時間の問題、つまり一時間で完結させる意識は捨てなければなりませんね。

 

ねこみん:

経験を積んでいけば単元に設けられた時間内に達成すれば良いだろうと長期的に考えられるようになるのですが、最初の方は難しいかもしれません。

 

エイジ:

それこそ、教師側の長期記憶の量を増やしてもらうしかないです(笑)

 

ねこみん:

あぁ、確かに(笑)教師の知識量が柔軟な対応を支えているのは実感としてありますね。

よく、教材研究が大事と言われるじゃないですか。教材研究って実は広い言葉で、教える内容そのもの、自分が学ぶ素材研究、子ども達の学習段階を鑑みた指導方略。

教育の書籍だと指導方略がピックアップされがちですけど、柔軟な対応を支えているのは素材研究なんですよね。

 

私が『ダンネマン大自然科学史』を一生懸命読んでいるのもそうで、素材研究をしていないと子ども達の発言の意味に気づけないんですよ。

間違った答えを言った子がいたとして、知らないと「間違っているよ」で流してしまう。しかし、科学史を読んでいれば、「すごいね、昔の学者さんもそうやって考えていたんだよ」と言えたりするんです。ここでまた一つ学習を深められます。

 

エイジ:

これは大きな違いですね。

 

ねこみん:

これ、なかなか理解されないんですよね。

私も昔、沢山のことなんて知らなくても指導法だけ身につけておけば良いと思っていたんです。

ただ、実際教える経験を積んでいくうちにそうじゃないな、と。どうしても柔軟な対応ができない。素材研究の大切さに気づきました。

 

エイジ:

棋士のプロとアマチュアの差が長期記憶の量であるように、教科教育のプロである教師は教科の長期記憶を蓄えておかねばならいという事になりますね。

 

ねこみん:

もちろん素材研究だけしていてもダメで、指導方法も記憶しておかねばなりませんが、両者の相互作用によって適切な指導が実現するんでしょうね。

これは教員養成課程ではなかなか実感できません。

 

学習を助ける評価は実現しうるのか?

 

ねこみん:

最後に、評価に関してお聞きたいことがあります。

評価の本来の目的は、学習者が自身の到達度を確認し、また教育者が自身の教育行為を計画し、またその成否を判断する材料を提供するものだったはずです。しかし、この評価をよくするために学ぶ(試験でよい点数を採る)という手段の目的化が起きてしまっている。

 

この現象をエイジさんはどうお考えなのでしょうか?本来の目的にかなう評価は実現しうるのでしょうか?

 

エイジ:

まぁ、テストの為に勉強しないメリットが少ないですからね(笑)学習の為とは言いますが、評価は透明性と説明責任を果たしたい大人の都合でしょう。

これは何も学校だけの現象ではなく、医療でも警察でもアカデミアでも同じです。

アカデミアですと、一時期、書いた論文の数で評価されていて、そしたら無意味な論文が溢れかえりました。引用数でも評価されたりしますが(インパクトファクター)、そうなると研究者がコミュニティを作って互いの論文を引用するように…

 

とは言え、評価が学習の成功を左右しているのは間違いなく、ヒトは狩猟採取時代から何をやったら成功して何がダメなのかという評価を認識する事で学習を進めてきました。

 

で、透明性と説明責任を果たしつつ、学習の質を高める為に評価を活用するとしたら、外部には公表しても子ども達に見せない事でしょうね。

 

ねこみん:

一つ、お話を聞いていて思った事があって。

評価には“形成評価”というものがありますよね。つまり、その都度テストを行う事によって生徒に立ち位置を示して学習に活用させる評価です。

私には師匠がいて、その方はテストを何回も受けていいって事にしていました。最終的に成績をつけなくてはいけないにしても、チャンスが何回もあるかどうかは大きな違いなのではないでしょうか。

 

エイジ:

なるほど。だとしても、テストの為の勉強になりませんか?

 

ねこみん:

最終的にはそうなっちゃうのかな…?

形成評価の目的は自分の立場を確認しながら次につなげていく事ですから、学習としては望ましい状況ではあると思うんですよね。

目的をどこに置くかによるでしょうが、学習段階では形成評価として採用し、最終的には子どもに開示しないとすれば…

 

エイジ:

評価(成績)をつけないのも現実的な話ではありませんよね。学校も評価による競争で成り立っていますし。

 

それにしても、学習段階に評価はいらないと思うんですよね。

ゴール・フリー効果に通じる話ですけど、目標を立ててしまうと寄与しない要素を見逃してしまいます(テストに出るんですか?でないなら次に進んでください)。

進化論を用いて学校のカリキュラムを組んでいるところがあるんですけど、そこには評価システムはありません(5)。

 

ねこみん:

おぉ、そんなところがあるんですね。

 

エイジ:

しかも、評価しないと身につかないかと思えば、大学入試はパスできています。

その学校では、教師はちょっと物知りな大人って認識です。

どのように評価を活用すればいいのか?というテーマで話を進めてきましたが、そもそもいらないのではないか、と。

 

ねこみん:

なるほど、最後のゴールだけちゃんと見ればいい気がしてきましたね。

 

エイジ:

形成評価とは言うものの、わざわざ数値にして示す必要はないのかな、と。知識が足りなければ必ず壁に遭遇しますから、そこで気づいて学習し直せばいい。

そもそも、フィードバックを得て自己調整する機能は備わっていますし、あえて形成評価と称してミニテストを設けなくても学習は成功する。一次的能力が教えられないのと同じ話です。

課題に遭遇したら教師が諭してフィードバックをすれば良い。

 

ねこみん:

なるほどなぁ。

 

エイジ:

もちろん、指導するには到達度を知っておかねばなりませんから、テストを設けざるを得ないにしても、目標にすべきものでもないですし、動機付けに使うべきものでない。

それならば定期テストの形とらなくてもやりようはあります。

 

ねこみん:

いやぁ、すごくわかる気がします。

塾としても模試等のテストは受けさせますけど、私が見るのは点数ではなく答案です。

生徒には「どうしてこの回答にしたの?」と聞くだけで、あくまでフィードバックの材料として活用してます。

 

エイジ:

ここで一旦整理しておきましょう。

①学習ツールとしての評価はあり。

 

②評価は子ども達に目指させるべきではない。上手くいかなくなったら随時諭せばいい。

 

ねこみん:

それこそ、徒弟制度、師匠と弟子の関係に通じる話ですよね。かんなの削り方を弟子に教える際、まず師匠がお手本を示し、「同じようにやってみろ」とだけしか言いません。

弟子は一生懸命やろうとしますが、当然、上手くいかない。もうその時点である種のフィードバック(上手く削れない)は得られているんです。

師匠は時々、「こうしてみろ」とアドバイスをし、やがて上手く削れるようになる。

ここに、学習に寄与する評価のあり方のヒントが隠されているように感じます。

 

エイジ:

確かに。削り方の到達度なんて示しませんよね(笑)

 

スペシャリスト教育

エイジ:

常々、勉強そのものを楽しむ塾があればなぁ、と思ったりするんですが、なかなかありませんよね。

 

ねこみん:

保護者は求めてませんからね(笑)全く求めてない訳ではないでしょうが、二義的になってしまいます。

どうしても、成績云々が資本主義のシステムと結びついてますから。

 

エイジ:

この流れでいくと明るい未来はないな、と…

学校は工場だと批判されますが、それは国民の平均値を上げる事が国力に直結していたからです。

で、今、国力(GDP)を左右しているのは平均値ではなくトップ層の能力値(6)。テクノロジーが平均的学力の必要性を下げてしまった。

 

ねこみん:

まさしく、最近でた『シン・ニホン』の3、4章で説かれていた事ですね。

この本では型にはまらない“異人”をいかに育てていくかという安宅さんの見解が書かれていました。

 

エイジ:

しかし、スペシャリスト教育に舵を切ったら、格差問題がより深刻になりますよね。

 

ねこみん:

5、6年前から頭で描いている事があって、江戸時代の私塾は型にはまらない“異人”を育てる理にかなったシステムだと思うんですよ。

私塾は単体で存在していた訳ではなく、全国各地にあり、儒学者や蘭学者がそれぞれネットワークを有していました。

その中で、「君は〇〇先生の元にいた方がいい」と、生徒の行き来が盛んに行われていたんですね。

このシステムを現代で実現できれば、“異人”が生まれる可能性が高まると思います。

そうなると、国がどんな支援・保障をしていくべきなのか、ここはまだ解けない問題です。

 

エイジ:

スペシャリスト教育のセーフティーネットですか…過去に類を見ない競争が予想されますからね。

考えだすとキリがなくなりますが、一旦評価の話に戻りましょう。

 

“異人”になるには既存の枠組みからでなければなりませんから、スペシャリスト教育をしていくなら、評価は余計邪魔になるのではないかと考えられます。

現状のシステム内ででき、なおかつ未来の教育につなげるにはどうしたらいいと思いますか?

 

ねこみん:

学習段階(学校に通ってる期間)は評価を無くして、最後に評価のタイミングを持ってくるのが現実解なのではないかと。

 

私は進学塾の人間なので、どうしても外にアピールする成果が欲しい訳ですけど、この成果は究極的には最後の入試結果に集約されます。

言い換えると、最後のゴールさえ見誤らなければ、比較的自由に実践を組み立てられる土壌があるということです。

塾の人間としては最後の結果にはこだわりつつ、自由な学びの実現を目指す。

もちろん、保護者に説明する為に途中途中のテストは用いますが、その意味合いを生徒に伝える必要はない。それこそ、模試返却の話です。

 

これが説明責任を果たしつつ、学習のフィードバックと自由を促す最善策なのではないでしょうか。

 

エイジ:

今の最善策かつ、次に繋げるファーストステップにするならこれでしょうね。

せめて、小中はテスト・評価をなくしたいです(笑)

 

一応、これでねこみんさんから頂いた質問には全て答えた事になりますね。なんと、ここまでで約3時間半も経過しています(笑)

 

ねこみん:

いやぁ、めちゃくちゃ深い会話でした(笑)

今回の対談でいろんなものが繋がりました。

 

エイジ:

僕としても、沢山のアイデアが湧いてきて、進化教育学理解が深まりました。また、よろしくお願いします。

本日は、ありがとうございました。

 

まとめ

①学習段階の目標設定は、応用性の獲得を妨げる(長期記憶の量を減らしてしまう)。遊びのように、活動する事自体を目的にするのが望ましい。

 

②探究させたからといって学習の質が格段に上がる訳ではない。むしろ、基礎知識はさっさと教えるべし。

知識が身について認知に余裕ができてから探究やアウトプットの段階へ移行させよう。

 

③評価するにしても、透明性と説明責任を果たす為に記録しておけばいい訳であって、成績評価を動機付けに用いる必要はない。課題を与え、躓いたらその都度振り返り指導し、最終的な到達度を指標にしよう。

点数で評価しなければ身につかないというのは幻想かもしれない。

 

 

これが、3時間半に及ぶ対談の記録です。

今回対談させて頂いたねこみんさん(@nekomin_rika)は幅広い教養と経験を兼ね備えた方で、お陰様で理想と現実のバランスが取れた生産的かつ有意義な対談が実現しました。

心より感謝申し上げます。

 

もちろん、今回私達が導き出した答えが必ずしも正しい訳ではないでしょう。

書き起こしながら、「ここは軽率な発言だったかもしれない」と反省する箇所が多々ありました(それでもそのまま書き起こしています)。

 

進化教育学はまだまだ発展途上の学問領域ではありますが、微力ながら私は、こうした対談や研究データを通して、少しでも教育理解が進む知見の提起に努めていく所存です。

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当ブログの運営者:エイジ

年間3600本以上の学術論文に目を通す20代男性の教育関係者。エビデンスのある教育を広めるべく、ブログ・ Twitterなどで最新の教育情報を発信中。 Twitterをフォローして頂けると幸いです。下のアイコンからTwitterのページに飛べます。


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